2004/6/11の妄想:邪馬台国〜エーテルについて (2004.6.11)


 

今日はふと、邪馬台国について考えてみた。

邪馬台国:
紀元2世紀後半から3世紀前半にあった女王・卑弥呼が治める国。周囲の21カ国と「邪馬台国連合」を形成していた。中国の正史である三国志の魏志倭人伝に記述がある。239年に中国(魏)に使者を出して、曹操の孫である明帝から「親魏倭王」の称号と銅鏡100枚をもらった。魏志倭人伝には邪馬台国の位置も記述されているが、その記述の不明瞭さ、そしてその他の資料の少なさにより、所在が九州か畿内かの論争が今でも続いている。

さて、僕も邪馬台国の所在地論争に興味が無いわけではないけれど、今日は卑弥呼はどんな人だったのかを考えてみた。ちなみに僕は歴史の基礎知識が欠落しているから、これはあくまで自分勝手な妄想なんだけど。

卑弥呼は巫女で、神のお告げとかを聞きながら国を治めていたようだ。亀の甲羅を焼いてヒビを入れたりしてたのかな。そのヒビを見ながら、「来年は不作になるから今から質素倹約しておきなさい。」とかバンバン指示を出してたんじゃないかな。

本当に卑弥呼は神のお告げが聞けたんだろうか。卑弥呼に限らず、旧約聖書なんかでも神(この場合はユダヤ教の神だけど)のお告げを聞ける人がいっぱい出てくる。昔の人たちは特殊能力があったんだろうか。特殊能力かどうかはわからないけど、僕が卑弥呼なら、やっぱり神のお告げは聞こえると思う。

そのお告げが本当に神からのお告げであるのか、もしくは自分の脳内で勝手に作らてしまったお告げであるのか、それはわからない。でも阿刀田高のキリストに対する考えと似てるんだけど、こういう場合、本当に神からのお告げかどうかはそれほど大事じゃないと思う。大事なのは本人が神のお告げだと信じていること。

亀の甲羅にヒビが入る。毎回入り方が違う。なぜ違うのか。それは甲羅のヒビが神からのお告げだから。お告げが変わればヒビが変わるのはあたりまえだ。そんなことは常識だし、みんな知っている。

今日のお告げは「来年は不作になるから、今から質素倹約しておきなさい。」ということだった。甲羅に縦横に細かいヒビが入ったし、それは田んぼがカラカラに乾いてひび割れている状態まさにそのものだった。そういえば昨夜夢に見たウサギも痩せこけていた。うん。間違いない。神様、教えてくれてありがとう。早速みんなに質素倹約の指示だ。

で。来年は不作だと言っておいてもし大豊作になったら。。。神が不作だと言ったのに豊作になった。もちろんそれにも理由はある。

去年、田吾作が畑で光る石を拾って私に持ってきた。私にはすぐにわかった。その光る石は現代で言うところのガラスなんだけど、その当時ではもちろん神の宝石だ。私にはすぐにわかった。だから私はその宝石を神にお返しした。だから、ご褒美として、不作であるはずの今年も豊作になった。だから今年豊作になったのは、ある意味、田吾作が神の落し物を見つけたおかげだ。明日は田吾作に感謝する日にするのでみんな仕事を休まないといけない。早速みんなに指示だ。

昨日なんかも、分厚い雨雲がパッと晴れて虹がかかった。なぜ雨だったのに急に晴れになるのか。普通はならない。普通ならないことが昨日なったというのは、そこには必ず理由がある。私は毎朝、定時に起きて神に祈る。でも昨日の朝は腰痛でしばらく起きることができなかった。私が起きてこないので神が心配して雲を取り払って、虹と呼ばれる七色の橋を渡って私の様子を見に来た。私からは神の姿は見えないけれど、私は神を感じることができるし、神の声が聞こえる。私が腰痛の時、神はたまに橋を渡って様子を見に来る。今までにそういうことが3回あった。

現代人なら「そりゃあ気圧の変わりやすい日は腰痛はひどくなるさ」とわけのわからないことを言うかもしれない。虹なんて水滴による光の屈折現象だよ。というかもしれない。現代人の屈折現象。

例えば3日前、与作が「家畜の牛に逃げられました。どこを探せば見つかりますか。」と言ってきた。私は教えてあげた。その牛は与作の家の災いを持って逃げたのだ。そして今頃、南の土地で死んでいるだろう。これはいい知らせだ。牛は与作の家に降りかかる災いを取り除いてくれたのだ。

私から見ると当然のことが、与作にはわからない。この世に満ち溢れている神のメッセージを受け取ることができない。最近イナゴが南に移動している。イナゴは災いの象徴で、イナゴが南に移動するのは災いが南に移動していっている証拠だ。牛となると、これはもう、イナゴの10000倍は大きい。イナゴが運べないほどの大きな災いを運ぶのだ。そんな大きい災いを、与作の家から牛が命を賭けて運び去ってくれた。だから与作はこれから毎日、牛に感謝のお祈りをしないといけない。とりあえず1ヶ月はお祈りを続けるように与作に指示した。

すると今日、与作がまた私に会いに来た。「逃げた牛が戻ってきたけどどうしたらいいですか」と聞いてきた。これは全くありえない。災いを運んだ牛は南の土地で死んでいなければいけない。

与作に詳しい事情を聞くと、なるほど、理由がわかってきた。与作は毎日、牛に感謝のお祈りをした。お祈りを一応はしたけれど、出産間近の妻の様子が気になったのでお祈りに集中できていなかった。やっぱり何事にも理由はある。そんなことでは牛も与作のために死にきれない。だから戻ってきてしまった。あたりまえだ。与作は私の指示に従って、もっと真剣に牛に感謝の祈りをささげるべきだった。でも今となってはもう遅い。その牛は災いを持っているのですぐに殺さなければならない。妻が出産間近ということは、イナゴ10000匹分の大きな災いは出産に関連しているに違いない。家に帰ってすぐに牛を殺して血を綿に浸して神棚にまつりなさい。

もちろん卑弥呼である僕は、少なくとも自分自身は本当に神のお告げを聞いていると信じている。周りのみんなも卑弥呼が本当に神のお告げを聞いていると信じている。全員がそう信じるのには理由がある。

世の中のことで普通じゃないことは何事にも理由がある。でも庶民にはその理由が何なのかはわからない。ところが卑弥呼には理由がわかる。なぜか。それは卑弥呼が神のお告げを受け取る選ばれた人間だからだ。

医者と同じだ。セキが出る。知識と経験豊富な医者なら、瞬時にその理由がわかる。もしくはどういう検査をすれば理由がわかるのかがわかる。これは結核、これは風邪。だからこの薬を飲みなさい。一般人はセキが出るというのは普通じゃないというのはわかる。何か理由があるはずだというのもわかる。でもその理由がわからない。だから医者に聞きにいくし、本気で治したければ医者の指示に従う。誰も5歳の子供に聞きに行かない。「セキなんかお菓子食べればなおるよ」と言われるだけだ。

邪馬台国では、卑弥呼が正しい答えを知っていた。だから当然、卑弥呼の指示は守らないといけない。卑弥呼の指示を守らなかった太郎は5年前、熊に突然襲われて死んだ。この時代、野生動物に襲われて死ぬのはよくあることだったのかもしれない。それでもみんなはこう思う−太郎は卑弥呼の指示に従わなかったからバチがあたった。弥生人の教養レベルを想像してみると、きっと統計的思考なんか存在しない。


妄想は面白い。僕はもし卑弥呼だったら、多分こんな感じだろうな。

高校生のとき、学校に文化人類学の先生が講演に来た。スリランカの「悪魔祓い」についての講演だった。すごく面白かった。スリランカの農村では村人が病気にかかると悪魔祓いをする。あたりまえだ。病気は悪魔にとり憑かれたから起こるのは周知の事実であって、病気になったら悪魔祓いをしなければいけない。何事にも理由があり、またその理由がわかれば対処法は自ずと見えてくる。病気になれば悪魔を追い払えばいいのだ。

さて、悪魔祓いとはぶっちゃけていうと「祭り」だ。

病気で寝込んでる人がいる。その病人の家に村人全員が集まる。そこで寸劇が始まる。まず悪魔役の人が悪魔の仮面をかぶって病人にとり憑く演技をする。主役は寝込んでいる病人本人だ。そこに別の悪魔達も参加して、寝込んでいる病人(一応主人公)の枕元で踊りまくる。そして最後には悪魔役の方たちは全員追い払われて逃げていく。劇の進行とリンクして、病人に本当にとり憑いてる本物の悪魔も逃げていくことになっている。だから病人は病気が治ってめでたしめでたし。そしてそんな感じの劇を見ながら村人全員、病人の家で徹夜で飲み会だ。昔聞いた話だから詳細は違うかもしれないけど、大体こんな感じだったと思う。それで病気が本当に治るらしい。

その文化人類学の先生が言うには、病気をする人は大体、ムラ社会から疎外されている。村八分だ。それで精神から弱っていって病気になって寝込む。

病気の原因がすべて村八分によるものじゃないとは思うけど、ある意味納得はできる。精神的なストレスなんかがあると病気になりやすいし、村八分では人と会うのがイヤになって家に篭りがちになったりするかもしれない。不健康だし、家に篭っていては田んぼの面倒も見れないから食べ物もひもじくなってくる。それで病気になって寝込む。

この現象を村人は、経験的に、「悪魔に取り付かれた」というふうに解釈している。悪魔に取り付かれたら村人全員でお祓いをしてあげないといけない。それがムラのルールだし、そのルールは何世代にもわたる経験に基づいている。

村人全員が集まって、病人が主役の劇を見ながら徹夜で酒を飲んで騒ぐ。今までちょっと村八分気味の一人ぼっちだった病人に、多分みんながいろいろ話しかけたりもすると思う。仲直りの会だ。悪魔祓いを通して、壊れかけていた人間関係が修復される。病気の根本の精神的な問題が取り除かれる。それで本当に病気が治る−らしい。多分ガンとか、肺炎とか、大きな病気は治らない気はする。それでもいろんな病気が治りそうだ。

確か講演した先生は、悪魔祓いを通した人間関係の修復が病気を治している、という風に話されたと思う。それもあるかもしれないけど、僕の意見はちょっと違う。

病は気から。病人に薬だと偽って小麦粉を飲ませたら本当に病気が治った、という類の調査結果はいっぱいあるんじゃないかと思う。悪魔祓いの場合も、病人本人はもとよりムラ社会全体が病気は悪魔が引き起こすと信じていて、悪魔祓いをしたら病気が治ると信じていて、実際そうやって治った病人を何度も見てきている。だから悪魔祓いで病気が治る。この方がすんなり説明できるんじゃないか。

ちょっとバブルのころの土地の値段を思い出した。国民全員が土地の値段が上がり続けると信じている。すごく信じている。信じているというより、「土地=値段の上がるもの」っていうのが社会の常識になっている。そんな社会で土地の値段がどんどん上がった。本来の土地の持つべき価値からどんどんかけ離れて行っても値段が上がり続けた。社会全体の信じる力が「価格上昇」という結果を生み出し、「やっぱり値段が上がるんだ」という結果がいっそう信じる力になる。土地神話。全員が信じた時、それは本当になります。もし卑弥呼が本当は神のお告げを聞いていなかったとしても、全員が信じたとき、卑弥呼は神の声を聞きます。


さて、次にエーテルのことについて考えた。

光(光子)は波の性質と粒子の性質を併せ持つ不思議な物質だ。でもアインシュタインのちょっと前くらいの時代はまだそれがわかってなかった。「光は波である」と思われていた。光が波ならば何か媒介する物質がないと伝わらない。例えば人の声は空気を伝わって届く。糸電話なんかでは糸を伝わって届く。途中で糸をぷちんと切ったら急に届かなくなるよ。光も何かを伝わらないといけない。何を伝わってるんだろうか。答えは、エーテル。本当はそんなもん無いんだけど、その当時はあると信じられていた。

僕は昔のエーテルの第一人者になったつもりでいろいろ考えてみた。専門知識とかは全く無いからこれも全くの妄想だけど。

自分はエーテル研究の第一人者だから、エーテルについては何でも知っている。光は空気中とか、水の中とか、空気も水も無い宇宙空間までも伝わる。光は波であるのは明らかだから、宇宙全体に光の媒介物質−すなわちエーテルが宇宙全体に充満しているのも明らかだ。

それは不思議でも何でもない。地球上には空気が充満している。空気は目には見えないから見せてくれと言われると困る。でも確かにここにある。誰でも知ってる。それと全く同じだ。目には見えないけど宇宙にはエーテルが確かに充満してる。宇宙全体にエーテルという「何か」が充満しているところを想像してほしい。今こうしている間にも僕は呼吸とともにエーテルを吸い続ける。それに実際僕はエーテルを肌で感じることができる。

ここでエーテルはちょっと休憩して、話を現実に引き戻してみる。僕は地面からの水の蒸発のことを勉強している。僕はもちろん地面から蒸発している水を見ることはできない。水蒸気は普通、目では見えない。気体である水蒸気がまた細かい液体の水に戻って「湯気」になると見えるけど。でも僕には見えないはずの蒸発がちょっと見える。濡れた地面を見て、「あー、これはよく蒸発してるなー」と“見え”たりする。

でも実際に蒸発が見えているわけじゃない。地面の濡れ具合を目で見て、風の速さを感じて、日の強さを感じて、気温を感じて、周りの状況とかから湿度を予想する。後は「これくらいの状況なら蒸発はこれくらい」っていう知識に頼る。それで蒸発を見た気になっている。でも毎日そういうことばっかりしてると、感じ的には「蒸発が見える」っていうのに近い感覚になってくる。

特殊な環境を除いて、例えば昼の公園の芝生から、目では見えないけれども、明らかに、100%確実に、水は蒸発している。エーテルの場合は本当は無かった。でも、きっと当時の人たちにとってエーテルは、明らかに、100%確実に、あるものだったに違いない。真空中で声が伝わらないように、当時の科学的にはエーテルがなければ光が伝わらない。世界が真っ暗闇だ。だから当時のエーテル専門家の僕としては自信を持って、「ほら。エーテルは、ここにも、あそこにも、満ち溢れてるじゃないか。」と言う。もしエーテルが本当はなかったとしても、全員があると信じたとき、エーテルはそこにあり、肌で感じることができます。

まあ今日は、その次に僕は、自分の身体の中のバクテリアになったつもりでバクテリアの世界観について考えたんだけど、ボーっと考えるのは簡単でも文章にするのにすごい時間がかかるので書くのはやめておこう。